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いぬのせなか座

座談会5 2017/05/21→2017/07/02

『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』をめぐって

 (ためしよみ)

 

 

 

詩(集)にとってデザイン/レイアウトとは何か?

 

山本 小説や詩など、主に言語表現の実作者である私らは、2015年5月に、いぬのせなか座という集団を立ち上げました。言語表現を基軸に置きつつも、そこで使用・発達する技術を、絵画や映画、踊り、写真、デザインなどの技術と翻訳関係に置き、さまざまな角度・身体から、私の死後に向けた教育の可能性をなるべく日常的に考えつづけていくことを第一の目的として、これまで、雑誌とも単行本とも言い難い書物『いぬのせなか座』を、2017年5月現在、2号まで刊行してきました。いまこうして始められた、「座談会」という形式(インターネット上のサービス「Google Drive」を用いて相互にばらばらに書き込み・書き直しを行なっていく対話のスタイル)で書かれたテキストを軸に、メンバーの論考や作品が飛び交う空間を提示する―あるいはその空間を作る時間をメンバー全員の思考に強いる―かたちで試みてきたわけですが、それと並行して、2016年11月より、特定の個人=制作者名を冠する書物を制作するプロジェクト「いぬのせなか座叢書」をはじめたのでした。

 ある時には自分たちが一から作ったテキストをもとに……ある時には外部の方のテキストをもとに……デザイン・編集し、一冊の書物として流通させる。その過程で出てきた発見や技術や理論、あるいは完成した書物そのものを、ひとつの道具・手立てとして、次の制作や発明につなげていく。そのようなかたちでの、長く密度の濃い共同制作を、実践的に考えてみる。叢書第一弾としては、いぬのせなか座メンバーである鈴木一平の詩集『灰と家』を、テキスト・デザイン含め一から制作しました。そして今回、「いぬのせなか座叢書」第二弾として刊行する河野聡子さんの詩集『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』は、詩を中心に共同制作やデザインやパフォーマンスなど幅広く凝縮した活動を長く行われているユニット「TOLTA」代表の河野さんによって書かれた詩作品群のテキストをもとに、山本浩貴+hが編集・デザインを担い、制作するものです。もちろん、山本浩貴+hが単独(2人だけ)でそれを行なったというよりは、いぬのせなか座内での議論や試行錯誤がその最中に食い込んできていたことは言うまでもありません。

 さて、今回、いぬのせなか座としては5回目となる「座談会」を、『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』をめぐるものとしてはじめたのは、初めて外部の方のテキストをベースにして制作した書物=詩集を、(当たり前だが)ただ作って終わりにしないこと――この詩集を手に取ったいつかどこかの誰かが、それを、よりよい自らの生や思考や制作に向けての道具として十全かつ高速に使用できるような手がかりを、いくつもの視点から残しておくこと――のためだと考えています。だから、(これはいぬのせなか座がいつも基礎においていることですが)作品を作るのが目的や終着点なのではなく、ひとつの引き伸ばされたプロジェクトのようなかたちとして、個々人が自分ならこの詩集をどう使うか、その作品内部でいったんは閉じられた技術を、最善の形で抽出・改変するにはどうすればいいか、そして次なる制作をどう生じさせるべきなのか。そういった探索・検討・制作をめぐる思考と議論の軌跡を――もちろんあくまで一例として、しかし徹底して繰り返し作品に対して行なわれる泥沼のような対話・分析の積み重ねとして――記しておければと思います。

 まず、ぼくは直に制作者の一人なので少し話しづらいのですが、河野さんのテキストから得られたデザイン・編集の大枠のコンセプトを軽く提示しておくことで、議論のとっかかりとして使っていただきたい。

 私らが今回、河野さんのテキストを前にして、一冊の書物をデザインしていくなかで最も強く意識したのは、詩集のタイトル『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』にも記されてあるような「ここ」というものを、詩集においていかに制作・思考するか、という問題でした。

 いぬのせなか座はこれまで言語表現に対して、「個々のテキストにはテキストを制作した主体(当然、書き手とはイコールで結ばれない)の思考と、それを取り囲み規定している環境が、埋め込まれている……そして詩や小説は、それら〈私+環境〉をどう並べるか、そのレイアウトの論理こそを試行錯誤し作り出している」という考え方を、基本としてとってきたように思います。レイアウトの思考(そのための試行錯誤としての、書き直しや編集)こそが言語表現の肝であり、ゆえに言語表現は言語(だけ)で作られているわけでは決してない……もっと抽象的な次元の操作こそが主たる素材である……そう考えたとき、無数の問題の結節点としてひとつ、言葉の配置される場所、つまりは(言葉に埋め込まれた〈私+環境〉らにとっての)「ここ」が、いつ、どのように、いくつあるのか、そしてそれらはどんなしかたで相互に関係しあっているのか、といった問題が浮かび上がってくる。

 当然いま言うところの「ここ」とは、個々の作品や書物全体が浮かび上がらせる地・主観性として、例えば小説では主に、物語や舞台や登場人物の単位で考えられたりするものであり、実作においては、なによりそれらを創発するテキスト(文章の構成や細部)のレベルで操作されるのが基本でしょう。ごく単純に、文章をどう書くか、です。しかし同時に、そのテキストレベルの操作のなかに、個々の文字の間の距離や反復の試行錯誤あるいは必然性の設定、(散文に特徴的なシステマティックな)改行操作などが含まれている以上、テキストがどのような紙面(デザイン)において提示されるかに関する操作が、〈私+環境〉のレイアウトに明確に食い込んでくることは避けられない。特に自由詩という表現形式の場合、その分量の短さや、改行の自由度の高さ、安定したひとつの地を冗長に持続させる必要の無さなどによって、問題はより過剰にあらわれる。小説において、あるテキストが、ある人物の発言として(鍵括弧に括られ)記されているその必然性として用意されていたもの(物語、人物設定、場面進行……等)が、自由詩の場合、紙面の表面に露呈してしまう。脳みその回路がどろっと外に出ているようなものです。ゆえに詩集のデザインは、〈言葉が読まれ書かれることを可能にしている基底となる場〉、〈作品を作品たらしめている必然性(この作品がこのようなものとして制作されたことの根拠)〉の操作にまで、なまに結びつかざるを得ない。逆に言えば、色や形が文字と平等に拮抗する可能性が、脳みその回路の設計として開かれている。

 今回の編集・デザインにおいて、「ここ」をめぐる試行錯誤は、たとえば、システマティックな改行によってその輪郭をかたどられるテキストボックスの枠への意識……枠を固定することで、そこに収まる内容物=文字の大きさの伸縮を扱ったり(ex.「代替エネルギー推進デモ」)、逆にそのようなテキストボックスの枠からの特定行のはみ出しを作り出したり(ex.「Cītlallohtihca(星々のあいだに立つ)」)……や、見開き単位でなされる作品展開、それによって可能となった見開き間のデザインの引き継ぎ・相互干渉・逸脱、などによって主になされた(ように自らは感じている)。それらはどれも、もともとの河野さんの詩作品(テキスト)には含まれていなかった要素です。今回の詩集でいくつかの連に分かれているようにデザインされている詩も、そのうちのいくらかは、デザインの段階で私らが連を勝手に切り分け、配置していったものであり、それらが上手くいったのかどうか、そもそも私らの問題設定が正確なのかどうか(有意義なものかどうか)は、もちろん時間をかけて議論すべきことです。ただ、私らが、河野聡子さんの今回の詩を、いくつもの「ここ」をめぐるもの、さらにはそのような「ここ」らがいくつも相容れないかたちで並べられたときにそれらを相容れないまま同居させるためのレイアウトの論理を試行/思考するものとして読み、ゆえにさらにそれら詩作品を並べ束ねるところの書物のデザインは、〈「ここ」が「ここ」であること〉――複数の相容れない〈私+環境〉らが、土地の座標や魂のように、ある持続を経由しつつ行き交いお互い不確かに従属しあうなかで、具象に還元されない不変項として浮かび上がってくる抽象的かつ共同的な場/日常的行為から抽出される特殊な翻訳関係としての代替エネルギー/単一の「ここ」を多層的で厚みのある交通空間たる「ここ」として成り立たせる何か――を制作操作するための技術にむかう一連の過程を構成していくと同時に、そのような、探索・発達・教育の過程を、十分に支え加速させられるようなグラウンド(運動場?)としても整備されなければならないと、考えていた(考えさせられていた)ことは、確かです。

 

鈴木 見開きの維持は、『灰と家』の制作においても問題になりました(というより、ぼくが見開きのなかに作品が収まるよう山本さんに絶えず要求しつづけたのですが)。とはいえ、『灰と家』は見開きひとつを作品の基本単位に据えていたので、今回の『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』における見開きの問題は、それとはまた話がちがうのかもしれません。

 他者への情報伝達を主要な目的に据える言語にとって、文字や音声といった構成要素は常にその伝達機能を阻害してしまう要因であり続けるわけですが、詩はそうした伝達の媒体でありノイズでもある音声的側面や文字の物質性、いわば言語の非言語性を過剰に使用するジャンルです。つまり、言語によって表示される情報を包囲するさまざまな要素を再度意識化し、それらが新たな情報のネットワークを形成するよう配置しなおすことで、言語の使用方法(と、それを使用する私たち)を言語の外に向けて拡張することが詩の射程であるわけですが、レイアウトの問題はその意味で絶えず検討を迫られるべきものです。それは行の配置に特権的な注目が集まる類の作品に限った話ではなく、権利上すべての詩作品で問題化されるものでしょう。なぜこのタイミングで改行が起こり、べつの場所では句読点が打たれているのか。なぜここに空白が置かれているのか。なぜこの行はこの文字数なのか……。

 それを踏まえて、『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』において見開きの維持をデザインの主眼に置いたことについては、収録作のいくつかが言語の非言語的側面を利用した時間の同期性および非同期性、同時性をモチーフとして共有している点でまずひとつ、重要な視点であるとおもいます。たとえば冒頭の作品「紙飛行機」では、《五時。》と示される1行目、続く2行目の《そして五時がきて》で、《五時》が2度使用されていますが、この反復は《スーパーのレジをアフリカが通過する》という記述を経由して、《五時のスーパー》《五時のアフリカ》と、異なる2つの場所における時刻としてそれぞれの場所に割り当てられます(《スーパー》がどこの国のスーパーかは明文化されていませんが、スーパーにいる《わたし》は《アフリカ》のややステレオタイプなイメージを夢みているので、少なくとも《アフリカ》と標準時を共有していない国にいるのではないかと想像できます)。つまり、《五時。》と《そして五時がきて》、それぞれにおける《五時》は、同一語でありながらそれが適用される場所の差異として位置付けられる。そして、《五時》の併置は2つの場所の同期を意味するのではなくそれらの時差、つまり《スーパー》と《アフリカ》における標準時の差として、異なる場所のあいだの非同期性を意味しています。しかし、一方では単なる非同期性には回収できないねじれが併置によってもたらされてもいます。というのも、《スーパー》と《アフリカ》の非同期的な時間のありようは、標準時をもとに計算される時間の差異であり、詩を読む過程においては遅れて把握されるものなので、語としては完全に同一の意味である《五時》とそれぞれの時刻が表現されると、むしろ時差を折り畳むようなかたちで両者の同時性が知覚されるからです。いわば、《五時》は異なる場所に配分された相互に異なる時間であると同時に、語としての同一性を通して2つの異なる時間を同期させているわけですね。こうして、くり返し帰属先を変えながら反復される《五時》は、時空を越えた変換子として異なる時間・場所に位置する対象同士を同期させ、交流させていく。本作品はグローバルな語彙が頻出する作品なので、これらをひとつの見開きのなかで読むことで、「地上」(というより「地球上」)を見下ろす「ここ」=読み手の視点が特に意識化されるのではないかとおもいます。

 別の作品も見てみましょう。「クマの森」では、浦島太郎のように異なる時間同士を直列させる記述があり、一方でそれに対する見開きはより強く作品の鑑賞体験に食い込むように設計されています。冒頭の《ぼくが三日生きるあいだきみは八十九年としをとる》は、紙面上ではこれだけ左ページ下部にポンと置かれていて、それから右ページの頭に《八十九年のあいだに/ヒトはクマになりクマはヒトになる》という、先ほどのものと似たような構造を持った行が続きますが、これは右ページに後続する展開を引き連れて押し込められているので、結果として冒頭の1行が強調され、続く2・3行目は後続の展開に埋め込まれるように弱められています。つまり、このレイアウトは2つの論理の提示に強弱をつけ、強められる左ページの論理を右ページの《ヒト》と《クマ》の変換操作の基調として、またクライマックスにおける《ぼく》と《きみ》の再会を強く印象づけるものとして主題化する。それに加えて、右ページ・左ページという分節への知覚は両者を対照させる読みも可能にさせています。この対をもとに作品を読むと、左ページにおける《三日》と《八十九年》の差異において圧縮されていた時間の解凍結果としての右ページの時間的過程という構造が見開きに持ち込まれ、線的に読まれる詩の時間にさらに別の時間が上塗りされる。要するに、《三日》と《八十九年》の対が両ページの文量と呼応関係において二重に強められるわけです。

 こうして、レイアウトは単なる進行上のアクセントや見栄えの問題を越えて、作品内部に張り巡らされた論理そのものと関わり合い、ひいては作品内論理の更新さえ引き起こすものとして考えることができます。これは過去の座談会でも実際の作品を引きながら話したことですが……「雑誌で見たときと詩集で編まれたときで作品に対する印象が変わる」というありふれた知覚体験は、固有の言語態をもつ制作者の言語操作を連続して経験することによって生じるものであるのはもちろんですが、なによりも掲載誌と詩集とがもつレイアウトのわずかな差異が、鑑賞体験の組織化になんらかのかたちで介入することで起こる、作品それ自体の生成変化なのでしょう。

 

 

つづきは『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』

でお楽しみください。