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座談会4 2017_02_04→2017_04_04               →灰と家

発行日:2017年5月8日

定価:300円

   A3用紙両面印刷5枚

 

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いぬのせなか座

山本現代で2017年1月〜2月に行われた展覧会「Malformed Objects――無数の異なる身体のためのブリコラージュ」を中心に、言語表現と美術作品・上演・展示のあいだの関係、他への指示と共同性、習慣とリバースエンジニアリング、そして新たな主観性をめぐって交わされた議論=58000字。

 

 

以下抜粋:

 

鈴木 「新たな習慣の発明」を改めて言い換えると、「習慣化した身体」のもつ複数性を維持しながら、制作において新たな習慣を立ち上げるべく行為を組織することであるといえるのかもしれません。習慣が単一の輪郭を持つとは限らない。自分はこれこれの、日々の生活のそれぞれ独立してつくられた習慣の組み合わせからなる身体を持ち、それを通して環境と関わっているとして、新たな習慣をそこにくわえ込ませることで、新たな身体を組成するという方法は、根本的な変化を私にもたらしうるほど有効なのか。それに、書き換えるべきものであると仮定される習慣と、私にとって実際に支配的である習慣が一致するともいえないわけで、このギャップを埋めつつ行われる自己の更新は、行為のなかで絶えず試されながら発現される違和感をもとに、感覚的な次元を経由しながら行われていく必要がありますが、そこではさらに感覚そのものと、反省を経て対象化される感覚とのあいだのギャップがありえる。どちらがより重要であるかを考えるより、こうした質的な落差を持った複数の感覚があること、かつそれらのどれにも還元されないものとして、これらの差異を通して、ここでいう「習慣化された身体」が現れるのかもしれません。習慣という語も私という語も、そうした複数の挙動を一括りに語ることを可能にさせるラベルであり、私たちはラベルがラベルとして機能する以前の知覚に向けて考えていく必要があるのでしょう。

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なまけ 新たな「神話」を開発することが求められているのであって、それらを横断して統合するのはもはや価値ではなく各々の身体です。よって価値ではなく倫理として(ここでいう倫理とは、個々人が個別に獲得した習慣から展開させたもので、上妻さんのことばでいえば、「複数の虚構」または「複数の環世界」に対応しているかと思います)、よりよく使うためのあらゆるかけあわせを試行錯誤する身体の繰り返し=習慣のなかで、転用可能性がモノと私とのあいだに、文字どおり目の前にひらけてくるんだ、とぼくは読み替えています。

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山本 この私における技術の蓄積や歴史性や内省による思考の突破などを所有とは別のかたちで考えられないか。複数の身体の交感状態と、私が私であることにおける過剰さの、はざまを考えるときに、たとえば幼い頃の私を今の私と対等に見つめるように、風や波を私と対等に見つめ、それに反応して自らの現在の行為を形成していく。そうしたところで初めて、従属の問題は、なぜこの人に従属するのかというような、自由意志の問題から離れる。と同時にそれは魂や、私が私であることを否定するわけではない。

 外部の環境からは導かれない行為が、ある身体において生じたとき、それをブラックボックス的な心の問題に回収させず、あくまで行為は環境と身体の交わりにおいて生じると考えるのなら、その行為は、身体が目の前に物理的に属している環境とは別の環境に従属したと考えるべきである、といったアイデアを、「いぬのせなか座」2号の序文で飛躍とともに記しましたが、このレベルでの魂、自由を肯定するものとして、微細な主体たちの教育関係はある。私が過去の私の記憶に従って振る舞うように、相手の身振りにあわせて振る舞う。それは外部環境への即物的な反応であると同時に、身体における環境の掛け合わせの能力に従った自由な行為でもある。そこでようやく、誰かの指示に従う、振り付けられることを、奴隷的なものとしてではなく肯定する、ということが生じる。