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いぬのせなか座

河野聡子『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』をめぐって

粋過去によって開れるいま ・

    粋他者によって開設されるわたし

 

郡司ペギオ幸夫

 

 

 

 

2017.09.02

 デジャビュに対する脳科学や認知科学の説明は、ミスマッチとしての説明である。既知と未知とは明確に区別できる。親近感の有無も主観的に区別できる。既知は何度か経験しているという意味での親近感を有し、未知は経験の欠如という意味で親近感を欠く。これが正しいマッチングとされる。未知であるのに親近感を感じ、懐かしさを感じる。このミスマッチがデジャビュというわけだ。ミスマッチにはもう一つ可能な組み合わせがある。既知であるのに親近感を欠く経験、すなわち、知っているものを初めて見ると感じる経験だ。これはジャメビュと呼ばれ、目立たないが、確かに経験される。

 時間的経験だけではない。人間や事物に対するミスマッチに、カプグラ症候群とフレゴリー錯覚がある。既知の経験や人物に対して親近感を欠く経験がカプグラ症候群だ。毎日見ている家族を、形態や行動は家族だが、何かが違うと感じる。そうだ。これは中身を宇宙人に乗っ取られているのだ。こういう感覚がカプグラ症候群だ。逆に知らない人をよく知っている友人と感じる経験が、フレゴリー錯覚である。この関係はデジャビュとジャメビュに同じものだ。

 身体に関するミスマッチも見いだせる。あなたの目の前の、机の上に、作り物であるゴム製の手がある。本物のあなたの手は机の下に隠されている。ゴムの手と本物の手の同じ位置にある部位を、同時に筆でこすってやる。この時あなたは、あなたの手ではない未知の身体=対象に、あなたの手を感じる。ゴム手に対するデジャビュだ。逆に自分の手を通常見ない位置関係において見てやると、自分の手であるのに自分の手と感じなくなる。自分の手に対するジャメビュである。これらは、身体としての既知・未知に対する、親近感の有無のミスマッチと説明されるだろう。

 

 ミスマッチという説明は、端的に間違っている。既知と未知は否定で結ばれた対立項ではない。既知でない時、未知であり、未知でない時、既知であるわけではない。未知と既知は常に区別されながら、表裏一体となって共立する。共立という意味で、全ての知覚や認知は、原理的にデジャビュである。あなたはまだ、コーヒーを飲んだことがないと想像せよ。コーヒーはあなたにとって未知である。しかし目の前に置かれたコーヒーが、カップに供され、飲み物であることはわかっている。飲み物であることは既知だ。コーヒーとして未知、飲み物として既知。未知と既知が共立する。いや、コーヒーと飲み物は、分類の水準が異なる、レベルの異なる事物だ。既知と未知の水準は比較できないのではないか。そうではない。むしろ、分類の水準や階層、そういったものこそ想像上の抽象である。後から説明する方便として論理的階層を想定しているだけだ。我々の知覚や認知の現場において、あるのは、既知と未知の共立だけで、階層などない。我々は知っていながら、知らない。既知がやや潜在するとき、新しいと感じる。未知がやや潜在するとき、わかっていると感じる。両者がともに外在化し拮抗することで、デジャビュやジャメビュが現れる。それは程度問題であって、マッチ・ミスマッチという明確な区別を有するものではない。

 

 デジャビュが起こり始めるとき、同じ風景が現れる。わたしは、青々と稲穂の実った水田のこちら側にいる。水田の向こう側には小山が広がり、小山と水田の際に沿って、道が伸びている。こちら側から、その道を走る肌色の車が見える。豆粒のような車は、走っているのか止まっているのかわからないほど、のろのろと進んでいる。突然、わたしは、その車の中にいる。左側に水田が広がり、右側には繁茂した木々が揺れている。その風景を見ながら、あれ、知っているぞ、と感じる。車は右にカーブする。そうそう、ここで右に曲がるのを知っていたぞ。今度は左に曲がり、道は鉤の手のようだ。そうそう、ここが鉤の手のようだったことを知っていたぞ。カーブになって見通せない山の陰からオートバイが現れる。そうそう、オートバイが現れることは知っていたぞ。

 そうなって初めて、知っていたと感じる何かが、奔流のように押し寄せ、止まらない。坂道を降りる足が、止まらなくなり、自動人形のように足が交互に伸ばされる。イメージが次々と強制的にわたしを侵犯していく。しかもそれはいつも同じ風景だ。同じ風景を思い出すのだから、カーブを曲がる前にオートバイが現れることを予見しても、良さそうなものだ。しかし、そうはならない。まるで封印されているかのように、オートバイが現れて初めて、「そうそう、オートバイが現れることを知っていたぞ」と感じるのだ。

 イメージの奔流はいつのまにか消えていく。幻覚ではない。どこに見えているかわからない。しかしこの騒動が一段落し、目の前の風景に立ち返るとき、デジャビュ感が現れるのである。

 スーパーのレジに現れるアフリカや、ライオン、飛んでいく紙飛行機に、謎のほうれんそう、レジにたった瞬間に現れる止まらない風景、向こうから勝手にやってくる彼らは、デジャビュの予兆の儀式、または、知覚経験がデジャビュであることの証である。

 今ここにあるレジは、この儀式によって、いま・ここを開設する。無関係な断片は貼り合せる糊代=糊を分泌し、糊代に浸潤して、いま・ここを、開いていく。

 

 

ところでゆりちゃんのお父さんは、大車輪ができるの?

 

 

 いま・ここは、「代替エネルギー」のように現れる。わたしが直面し、佇んでいるこの現場に、未知が押し寄せ、解釈しようとする。みんなバラバラな、無関係なものでありながら、勝手にやってきて、各々が、互いを貼り合わせる糊代のようであり糊自体でもあるような何かを浸潤させる。いや浸潤させられる。糊代=糊は貼り合わせられるものを選ぶ。糊代=糊が現れ、糊が決まってくると、それに合ったイメージが紡ぎ出され、貼り合わせを加速する。材木には木工用ボンド、岩絵具には膠のように、糊が決まれば貼られる素材も決まってくる道理だ。

 未知からやってくるイメージは、アフリカや、ライオン、飛んでいく紙飛行機に、謎の、ほうれんそうだった。それが、シャープペンシルやドアノブ、ピアノや拍手、になってくると、各々の間に「代替エネルギー」という糊=糊代が現れる。シャープペンシルのノックは電気に変換できるぞ、ドアノブを握る圧力もそうだ。ドアノブの回転をさらにきつくしておけば、握る力はさらに強くなり、より効率的に電気的エネルギーを作り出せる。拍手はどうだ。強く、もっと強く、もっと速く叩くことで、代替エネルギーとなる。「代替エネルギー」という概念がやってくるや否や、未知の断片はたちどころに貼り合わされていく。「代替エネルギー」は、元来、やってきたイメージの共通項などというものではない。共通なるものなどない。ただしそれをないと決定するわたしもまた確たる存在でないことによって、ないという証明を棚上げにする。我々は無根拠に、「共通」というだけだ。果たして、代替エネルギーによって、シャープペンシルやドアノブ、ピアノや拍手、は貼り合わされ、代替エネルギーという共通なる全体を開設する。バラバラのイメージは、「代替エネルギー」を作り出す。

 

 青々とした水田や、肌色の車、右にカーブする小道に、オートバイ、これらもまた、未知の断片だ。互いに独立な、これら断片の間を埋め、何らかの形で共通なる全体を作りだそうと、既知が、ひたひたと忍び寄る。まるで満ち潮のように、やってきて、未知の間を埋め、未知の共通項を立ちあげる。それは過去に沈殿していた意味である。バラバラのイメージという未知の間を埋める糊=糊代とは、忍び寄る既知であった。アフリカや、ライオン、飛んでいく紙飛行機に、謎の、ほうれんそうから始り、シャープペンシルやドアノブ、ピアノや拍手、に至った時、「代替エネルギー」がやってきた。代替エネルギーという具体的既知、代替エネルギーという具体的過去が、糊=糊代(既知一般)の浸潤に伴い、その意味を露わにしていったのだ。

 青々とした水田や、肌色の車、右にカーブする小道に、オートバイ、これらの場合はどうだったのか。具体的な過去は現れ損なった。ひたひたとやってくる過去は、様々に変容し、様々な具体的既知が、一瞬に試された。しかし適合する既知はどこにもなかった。こうして現れた既知の不在とは、具体的意味を一切有しない、すなわち経験としての具体的意味を持たない既知、純粋な記号としての既知である(ベルグソンはこれを純粋過去と呼ぶわけだ)。これこそが、未知に意味を与え、バラバラなものを繋ぎ止め、極限的意味を立ち上げることになる。極限的意味、それはもはや「既知」というだけの感覚だ。それは、無根拠な懐かしさ、として知覚されることになる。知らないものであるにもかかわらず、ただひたすら懐かしい。これこそが、デジャビュだと考えられる。

 わたしの、この身体という感覚もまた、押し寄せるバラバラのイメージを繫ぎ止める全体として開設される。視覚や触覚、様々な外部刺激の感覚は、押し寄せるバラバラのイメージだ。同時に擦られるゴム手の中指とわたしの中指の視覚、触覚刺激は、バラバラのイメージの奔流としてわたしに押し寄せる。これら未知のイメージを繋ぎ止めようと、既知がやってくる。こうして貼り合わされた全体=既知こそが、わたしの身体性である。果たして、ゴムの手は、わたしの、わたしに帰属する手と知覚されることになる。わたしの身体が、開設される。

 

 

ところでゆりちゃんのお父さんは、大車輪ができるの?

 

 

 

 互いに関係のない、独立な未知の奔流と、静かに押し寄せる既知の潮。互いに区別される既知と未知とが、同時に表裏一体となることで、いま・ここが開設される。表裏一体となる時、一方が他方を侵犯し、逆に脱侵犯化される。それはデジャビュにおいて、明確に現れた。未知の奔流が、現場を侵犯しようと押し寄せる。ひたひたと押し寄せる既知は、未知の間の領域を侵犯する。同時に未知は、既知を侵犯して最適な具体的既知を見つけようとする。しかし全てを見渡し侵犯し切った果てに出現した既知の不在が、純粋な記号として脱侵犯化を果たし、未知を侵犯しきってしまう。こうして、徹底した未知が、純粋な既知によって覆い尽くされ、果てしない懐かしさだけが広がっていく。

 純粋な記号は、徹底した懐かしさだけではない。自己という純粋な記号として、我々一人一人に常に立ち現れる。諸々の諸行為の断片によって突き動かされる自動機械。自然の中で自ずから、自然界の法則に従って形成されるわたし。この徹底した受動的世界における、世界を能動的に実現するものの不在こそが、純粋な記号としての能動を立ち上げる。未知が既知を侵犯化せんと企て、脱侵犯化された「既知」によって侵犯されたように、受動が能動のよって立つ場所を消去しようと、受動が能動を侵犯化せんとした企て(=どこかにいる、わたしを動かしているはずの能動主体としての他者を発見する企て)は、脱侵犯化された「能動」によって、自己=わたしを開設するのである。

 夥しい、バラバラの未知が、シャープペンシルが、うちわが、拍手が、チーズが、ハムスターが、代替エネルギーの下に蠢く全体は、こうしてこれを実現する能動主体の脱侵犯化によって、逆説的に自己=わたしを立ち上げる。代替エネルギーによって、盛り上がっていく世界を鳥瞰するわたしが、その鳥瞰図式の具体性とはほど遠いところに生成=存在することになる。それが、ロケットの中で制御棒に詰まったみかんを取り出し、放出され流れていくみかん色でみかんの香りを漂わせみかんの形をしたみかんに集中するわたしなのである。

 

 

ところでゆりちゃんのお父さんは、大できるの?

 

 

 

 未来(未知)が唐突にやってきて、過去(既知)とのせめぎ合いによって現在(いま・ここ)を開設する。せめぎ合いの侵犯化は、脱侵犯化された能動を経由して、自ずから受動的に出現したわたしに、自ら能動的働きかけを実現する。最後に現れるのは、過去だ。ひたひたと押し寄せる既知にして、解釈せんと未知を待ち構える者共。いま・ここであったはずの経験が沈殿する場所にいる者共は、こうして現場に押し寄せる未知、現になされている未知と既知のせめぎ合い、地上で起きた出来事をここから全部見ているである。

 

 いま・ここは、未知の中に、既知なるものの何かを正しく継承する訳ではない。それは、多かれ少なかれ、既知の脱侵犯化による未知の侵犯化なのである。一貫したものなど何もない。ただし何もないと証明できないが故に、一貫性の不在を声高に叫ぶ必要もない。こうして時間は紡がれていく。わたしが持続するということも同じことだ。一貫したわたしなどない。受動的なわたしとそれを動かしているはずの能動的自然=他者がせめぎ合い、能動性の不在が純粋な能動性の記号となって受動的なわたしを侵犯し、わたしを開設する。わたしの持続は、断の不連続でしか在りえない。

 不断の不連続として存在するわたしは、他者や次世代に継承される具体的内容を持たない。不断の不連続として、共有され、持続され、継承される。その中においてしか、生きるということはないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

郡司ペギオ幸夫(ぐんじ・ぺぎお・ゆきお)

1959年生まれ。早稲田大学基幹理工学部表現工学科教授

東北大学理学部卒。理学博士。1999年神戸大学教授を経て2014年より現職。価値を客観化できない徹底した個別性をテーマとする。