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いぬのせなか座

『灰と家』を上演するための4つのノート

山本浩貴+h

 

 

    1

 

『灰と家』は、言語を用いて思考するものを、テクストとその手前側に位置する私の身体のはざまにおいて再現する営みとしての読みの過程を、日々生きるこの私を以下の問いに関わる媒体として構成しなおす訓練の手続きとするための、ひたすらな準備‐予告となるように、自らを上演する。すなわち無数の環境(朝/夜/生まれたころ/死ぬ前/あそこ/ここ……)を単一の論理からは導き出せないしかたで掛け合わせていく結節点としての〈私が私であること〉が、この身体に、いかなるかたちで組織されるのか、あるいは異なる持続を抱えた〈私が私であること〉同士がどのように関わりあうのか、という問いへの思考において、言語という媒体がいかに使用可能であるか、そのような使用可能性から遡及的に発見される〈言語〉とはいかなる媒体か、という(問いへの)問いであり、これらはみな、一方の〈私が私であること〉が消えた後も、他方の〈私が私であること〉において残る、論理間の根本的な相容れなさが、限られたものや場所へ向けて繰り返し適用される組み合わせ可能性の試行錯誤としての〈制作〉を、ひたすらに継続させていくための技術とするような、共同〈生活〉の場の運営(〈私が私であること〉の生活化)に関わる。

 

 

    2

 

私とは《自重で燃える光》の現象であり、そこにおいて無数の私らの《堆積層の交替》が起こるが、それが私という持続を一息に別の私という持続へ向けて断絶変換したとは私は気づけない。ただ私の外にある、私とは直接は相容れない別の私=《鳥》が、自身の内部でのゆれによって目覚めたと思い違うほどの《ちいさなゆれ》を、空気中に波立たせ、彼が《これから》の《音》を私の代わりに聞くだけだ。この交替と波及は、改行詩が強いる、言語表現主体に関する読みの運動と重ねられることで、まずは、詩の制作過程において問われるものとなる。「山の背に夜が注ぎ込まれて」の最初の二行は、《鰓》が直後に《が》を添えられることで、周囲の文章を語り手として抱える理解の磁場を作る。その磁場はすぐに三行目の《目》へ収束し、さらに同一行内の《楡の木》へと伝達される(がこの抱えは四行目の《昼すぎの幹》と《楡の木》のあいだの微かな自己言及的持続に即座に引き継がれる)。次いで五行目《ねむる鹿》を着るイメージに、詩を読む私の読みの論理が《注ぎ込まれ》、《鹿》を中心とする第二連への、第一連全体の運動の凝縮が、《おまえの体を渡って/向こう岸にいく》という呪文とともになされる準備となる。

 

 

    3

 

常に私は言語の連なりをそれを表現したものの思考を辿ることで読むがその動きは、特定の単語に周囲の言語が折り畳まれていく入れ子として為される。もちろんそれは《私》という言葉が最大の引力を担うが、タイトルと本文、散文詩と改行詩、俳句と日記といった変換関係へと伸び広がる。「かげのえ」「夜道のそとで」は書き直しの対応関係を、他の見開きでの同一単語・表現の反復(《雲》《目》……)へと波及させることで、一方が一方を抱えようとしつつも抱えきれない要素群を《たがいちがいに積んで》併置するよう試みた表現者として、ここまでは言語において立ち現れる思考だったがここからは言語においてというよりその狭間の断絶、それを抱えうる余白の身を示す。この詩集に改行詩があるその理由である。言語は文法を場に、単語の宿をつくり、宿同士をかけあわせていく。そこへ言語は自身を並べる思考に改行をもたらすことで、文法という場を崩す回路を手に入れる。《水は内に抱えた眺めを溶かしてひとしきりゆれてみせたあと、みな面を曲げてあめんぼの休む空き地をくずした。》《水を張ったバケツがゆれている。そのゆれに同期するように町はずれ、放置されたままの高炉を囲む草が組織していた。》《金具に映る月》、無数の私はものを媒体として外部を知覚し、私を別の私へと組み換え、外部の誰かへとゆれを響かせるが、そのときものを中心に私は空き地を、高炉を囲む草を組織し、あるいは誰かのそれを崩す、それを誰かはものにおいて知覚する。余白とは場である。

 

 

    4

 

ものに新たな場があてがわれれば内部で《交替》が起き、かたちを変え、《それが倒れこむ土砂の影だったと気づく》ように、別であったかたちを重ねとして映す(《その人と空のあいだを浮かんでいた雲が、彼の背中によりかかるわたしと空のあいだを横切ろうとして、かたちを変えた》《目のうち側で、ゆっくりと曲がる木々、きみの目が》)。そのとき両者のあいだにおいて(《昨日みた赤と/区別のつかない赤とのあいだ》《家と家のすき間から》)、私のではない別のものの言語が探索される(《手をわたしの手の上にうすく重ねて、閉じる目に縁取られた夜の輪郭が、樹液の言葉に置き換えられていく》)。ただしそれは《油粘土に木べらで彫られた読めない字、ある日、友だちがそれを残していなくなる》、書き言葉は別の私の場の組織の手続きとして私に読めなくなる。読めなさは翻訳すべき対象の姿をとらずむしろ場から場を引いた《人のかたちをずらした景色/いまは道のかたちにくりぬかれた道》として余白の知覚でしかないが、ゆえに私は別の私とともに《まっ青な水面の、奥行きごと映る空に手を入れて》場を組織し、次の連へと引き継いでいくことで《熊がその水をなめにやってくる》。(「私を繁栄させるには」から「水路」に到る)音と文字のほつれが、場ともののほつれとなることで、読み書く私の内的《交替》速度を分散・乗算し、常にいま生じる《また次の日のじゅんび》を訓練させられる。テクスト表面の幾多の余白と〈私が私であること〉の持続の対峙として私は私らを日記に残し、俳句を作り、詩の素材として並べ、場の組織を抱えながら次の言葉へ。

 

 

 

初出:鈴木一平『灰と家』(いぬのせなか座叢書、2016年11月)栞文