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2号←                    いぬのせなか座1号

発行日:2015年11月23日

   (第2版 2016年5月31日、第3版 2017年5月16日)

判型:210mm×210mm

ページ:178ページ

定価:1600円(紙版・PDF版セット)

 

 

 目次

 

 座談会1

 2015/05/17→2015/05/31

 鈴木一平 なまけ 山本浩貴+h

    今のぼくがぼくの軸になって生きるべき季節は今日でおしまい

    多宇宙の練習としての小説

    「私が私であること」を貸し与える

    「遊び場」としての余白

    余白の差異と共同体

    語りと責任

    ねこと告白、読みにおける厚みと不変項

    ねこは貞子のように手前に身を乗り出してくるか

 

 論考

 新たな距離 大江健三郎における制作と思考

 (Abstract/Novel 概要)

 山本浩貴+h

 

 詩

 全集

 鈴木一平

 

 小説

 ロケットのはなし

 なまけ

 

 テキスト

 共同性についてのノート、絵巻物

 山本浩貴+h

 

 座談会2

 2015/10/17→2015/11/08

 鈴木一平 なまけ 山本浩貴+h

    ぼくらの時間の尺度を、ぼくらの作業場に限って

           まわりと変えてしまうのは

    タッチと空間、読みのコンポジション

            俳句が俳句であることを、見るということ

    人間を書き換える場所、

            メディウムとしてのイメージ

    「新たな距離」としてのレイアウト

            詩におけるキャラクター性と法の生成

    テクストをまねる魂 いくつもの生きものが

            ともにばらばらに思考することに便利な

              ひとつの道具をつくる、

                転生蜂起のための学校

    +の思考、素材を変えた変換の成立 純粋言語へ

            向けた多宇宙らの営みは、いかにして

              技術を伝播しあうのか

 

 索引

 

 

 

 

 

いぬのせなか座 1号は、2015年11月の文学フリマ東京にて最初の販売を行いました。2016年5月に、デザインを変更した第2版を刊行いたしました。

さらにその後、2017年5月に第3版を刊行いたしました。

 

通販は、送料無料で行っております。

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いぬのせなか座

 新たな距離 Renewed Distances とはなにか。それは、私がものをつくるなかでいくつもにちらばり矛盾しはじめた私らを使って、常に「この私」を救い(投げ)出しながら思考する、その過程において獲得されるだろう多宇宙間の幅の瞬間的な知覚のことである。それは同時に、生きものが新しい人として目ざめる=進化することの、要因、証明でもある。

 

 時間も空間も存在しない。あるのは、スナップショット化した宇宙たちの、毎秒毎秒、粘菌のように伸び縮みする星座的でじぐざくながんじょうさだけだ。朝の私と夜の私、生まれた瞬間の私と死ぬ直前の私が、まったくちがう、けれど奇妙な類似でつながっていたりもする個別の宇宙の色あいに属していることを知る。いま、新しくすることはできない。でも、新しくされたことだけはわかる、いくつかの距離にゆだねられたい。一瞬でも、その制作可能性の手応えが生まれたなら、私はどれだけ私でなくなろうとも、私がどれだけ死につづけようとも、私はあらゆる忘れを外へ外へと投げ出しながら、世界がここでない場所といっしょに凝縮してあることを、かすめとった反復として、定められた反復ではなく、信じることができると思う。

 

 だから、ぼくたちは、「私が私であること」を材料にものをつくる技術を学び、探そうとしてみる。絵画でも、音楽でも、映画でも、建築でも、ダンスでも。あらゆる制作とその思考において。テキストという、たった数キロバイトのデータのなかに、あれだけの空間の重なりが平然としてありうることを手がかりに、「小説は言語芸術ではない」と表明してしまおう。

 

 小説を組み立てている言葉たちそのものよりも、言葉を発しあらわしていた今では化石としての生きものたちと、それらの埋め込まれた環境に特定的な身ぶり手ぶりの過程の地層との、そのくみあわせに注目して、平たい岩盤の凹凸やひっくり返りを細かく見つめるのだから、問題の重心は、とうぜん、地層のひとつひとつでものをつくっていた生きものたちが、化石になった自らのうちにあとあと感じるだろう即座の気持ちや意図なんかにはない。かといって、ひとつのまとまりとして提示された作品の表面におびただしい、石や貝がらや木片どうしの関わりあいに気をつかい、そこにあらわれる、表現物以外ではありえないような矛盾や裂け目を指摘するだけで、表現をよろこびうやまうほどに、ぼくたちはのんびりしてもいられない。どこか目指すところがあるとするなら、それは、制作された地層のもつ表面的な矛盾や裂け目から、知覚のにおわす次元の上昇と下降を汲みとって、ぼくたち自身がいかに雑多な種族の住める環境として進化しているのか(しうるのか)知り、技術としてふたたび備えるということ。

 

 その進化は、すぐさま退化してしまうものだろうけれど、それでも進化する技術がどのようにして錬成され、どのようにして惑星の表面でぬっすと立ちあがっているのか、実験を繰り返すなかで、知る。思い出す、そうして習慣の厚みが増し、私が人間を超えた生きものになっていた瞬間を、かすめとり、そんなふうな生きものが、とっくの以前からあらゆる世界に出つくしていることを、基底として確保していかないと、もうすぐ、なにもかもが絶望のうちに終わってしまうだろう。生きものたちを使った実験が、森、磯、砂漠、川原、屋内駐車場と、この惑星のいたるところで行われているらしい現状が、宇宙ではなかなか得られない短な出来事だということを、よく理解したうえで、なるべくそのチャンスを逃さないように、目を光らせつづけることも、たいせつだ。手でも、耳でも、だいじょうぶ。

 

 なるべく、一回だけの即興なんてものを信じちゃいけない。即興に利点を見いだそうとするなら、何重にも重ねた即興であるべきだから。その重ね方において、技術が見える。私が私であることを、決して喜劇、ましてや悲劇なんかとして捉えない。私が語ることを人間のうちにとどめたりしない。《私は 私で あった。》書かれ呼ばれた言葉ではなく触れずにいられない奥行きがある。平面のあいだで学ぶこと。目がおへそを学び、親指が小腸を学び、髪の毛がせなかの少しだけ後ろがわを学ぶ。まなざしが足をよろめかせ、生きものがしばらくの圧力をかけられて鉱物になり、そこで光が何重もの色に塗り分かれる。ものをつくることは学ぶことであると学ぶ、教育=実験の場を設計する。そこで、進化していたことを知る。

 

 その設計の場でありながら、成果としての場そのものでもあるべきところとして、ぼくたちはまず、初動を生んでみよう。用意する方角は、次の3つ。

 

(1) 3ヶ月ごとに3つの主題を選び、それらをなるべく重ねたり、欠けたところを別のもので補ってみたりしながら、それらこそが重力であるかのようにふるまったり、生まれた私の起源であるかのように振舞うことにおいて、ものをつくり、宇宙の練習をつづけてみる。3ヶ月たったら主題のいくつかを変え(ぜんぶ変える必要はない)、2タームもしくは4タームごとに一度、単位としてまとめる。

 

(2) 語ったもの、つくったものは、必ずつくりなおす。それも、他人の身体で。名前がちがっても、それが他人の身体を持っている根拠には、たぶんならない。

 

(3) 自分が十分に語(ら)れている、読め(/まれ)ているとは絶対に考えない。なおかつ、無意識を完成のために使わない。誤認の物語をつくるためには、積極的に使えるといい。因果関係をつくりつづけることが、環境そのものになる。

 

 こうして、なるべくたくさんの私を並置して使える澱みのような場所を保てれば、あとは、自分のためではなく、いなくなった=いなくなる向こう側にいる生きものたちの、あらわれえない底のために考えて、新たな距離に、いくつかなら近づけるかもしれない。ゆっくりとではなく、瞬時に何度か、近づくべきだ。ぼくたちは、しばらく焦らないといけない。

 

 山本浩貴+h 2015年5月1日