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いぬのせなか座

河野聡子『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』をめぐって

すべての連の空白からみえるすべて

 

町屋良平

 

 

 

 

2017.08.27

みんなをおぼえているよ、とみんながいう。みんなをおぼえつづけるために記録をつなぐ。失敗すれば砕けた鎖の星がふる。とおくから星がふるときは、みんなをめがけて、みんなが降りしきる。あたって砕け、砕けつづける。もう夕暮れで、山口さんのエレベーターがほのあかるい海中塔にしずみ、海藻をつつくさかなたちが、海のふかいほうへおりていく。砂漠のような波のレリーフが刻まれた地層を佐々木さんの非常階段が這いながらのびる。急角度で見おろしたさきに船着き場と釣り人。そこへつうじる表階段はとてもとおい。優雅に手すりをつかみながら鈴木さんが階段をのぼる。佐々木さんの岸壁の道は木のトンネルと岩のトンネルにつづいている。くぐるとエスカレーターの銀色がひかる。小川のように一方向へながれつつ、にぶい輝きを放っている。

 

 

 

 ある日曜。午後。かれは詩集をよんだ。

 

今回の詩集でいくつかの連に分かれているようにデザインされている詩も、そのうちのいくらかは、デザインの段階で私らが連を勝手に切り分け、配置していったものであり、

 

 という文章をよんでいるとどうじに、新人小説家からメールが送られてき、そこには掌編小説が添付されていて、かれは新人の原稿到着にすこしおくれてきがついた。

 すぐによまなければいけない原稿だった。

 かれは川へでかけた。

 

 自動販売機で細い缶(250ml)のサイダーをかう。

 汗をかくそれを右手に握って、左手には新人の掌編小説の数枚の束をもって、橋をあるく。

 すれ違うひとびとはかれではなくサイダーばかりみる。いぬを連れているみたい。みおろす水面のむこうに透ける青空があった。鉄塔にたわむ電線がゆらめいては途切れた。

 小説の呼吸は詩の連と連のあいだにしかないかもしれない。

 ととうとつにかれは考える。詩の前にもあとにもない、詩の全体を隠喩的に代替することもない、といって別空間にあるふうでもない。

 入念な手つづきを経てもなお拡張方向が人間→自然というようになってしまいがちな小説に比して、俳句では作中主体が定点としてあったとしても、季語と定型をもって自然⇆(季語×定型)⇆人間というよりランダムな拡張方向を行使しているのかもしれない。それによってしか生まれえない跳躍のほうが、むしろ前提とされている。そうして見えるべき風景が見えだす、往路がうまれて。では詩にとって連とはなんなのか? 詩にとって連分けされているものといないものと両方あることはとても重要とおもえる。なぜなら、俳句における(季語×定型)のもたらす(かもしれない)拡張方向のパラレル化、人間になだれこむ対象の往路がより多元的に、うまれる空白かもしれないからなのだ。かれは二連目につよい要素をもってくる詩がとりわけすきだった。一連目は初期衝動との出会いが弾けて、どんな詩にもみどころはあるのだから。つまり、うかつに連分けするこわさを教えてくれる一連の詩もすきだった。

 ようやく川にのぞみ、新人の小説をよむ。草が足首にふれ、かれは靴下をもちあげた。

 一文目をよむ。

 段落をよむ。

 ふむ、これなら次号の掌編特集に載せてもよいか……

 とおもいはじめ、サイダーを口にふくむ、次の瞬間、かれは奇なる現実にきがついた。文字が消えている。

 よんだはずの一文目、段落、そのかたまりが紙から消えていた。

 しかたなく、つぎの段落をよむ。おなじように、文字はよむそばから消えていった。

 ひととおりよんだ。佳品なのだが、紙はいまや白紙。あたまのなかの現象だけをたよりに、白紙のいちまいいちまいを川にながし、その日は家にかえった。橋のうえに登ると、ながした紙のいちまいがとおく水面に揺れているのがみえた。水面は夕焼けだった。

 

 翌日。

 会社にいく。

 新人に、

 …… あつくなってきましたね。昨日送ってくれた小説、郵便で送っていただだけますか?

 というメールをかいた。

 かくして郵便でやってきた小説は、かれがよむそばから文字が消えていき、この世のあらゆる読者がそうぞうできるいかなる手だてをこころみても、文字状態を維持することはかなわなかった。

 文章につきまとう「文体」という幻想を考えるにおいて、時間(モチベーションと神経失調/好調、自己同一性の錯覚、リズム、生活時間)、空間(書き直し、レイアウト/断章、語彙、身体的拡張/拡張的身体、生活空間)は、いかにも同一で仲良しなふうであるにもかかわらず、言語表現として起こすには、それぞれに敢えて翻弄されるような操作を遊ばなければいけない。とりわけ小説では、ともすると片方だけを把持することにもなりかねず、充分な認識なしにはうまくながれないし遠くへ跳べない。ゴテッとした散文を読ませる時間を跳べ。それこそが小説の迫力だ。そうして書き直しのたびに初期衝動と偶然性の死体こそが行間という概念を発見させる、祝祭の翌朝めいた状態を、散文の宿命とみる、この掌編にあった気がした迫力が、いまやどこにもない。かれの心に照射されたかもしれない迫力とは、いったいどんなものだったろう?

 かれは新人の原稿をあきらめて、五階の窓から身をのりだして白紙を外へ投げた。したでは何人かのにんげんがうえをみあげた。紙のむこうに木々と青空があった。そうして超然とデスクへと戻り、もう一度五日前によんでいた本をひらいた。五日前とはまるでべつの本のようにおもえる。それでも、五日前もいまのかたちもとても善い詩集。

 

 

 

みんなトンネルをとおってこなければならなかった(だから佐々木さんは佐藤さんに出会えた)。くらいトンネルの出口ではいちばんに「でた!」といわなければならない。遅れたほうが負け。トンネルにはいれば、息をとめて前にむき、地平にあかるい口がひらくまでずっと前をみつめているのだ。いま、トンネルを飛び出す、その瞬間に「でた!」と叫ぶ。でた! でた! でた!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

町屋良平(まちや・りょうへい)

1983年、東京都生まれ。

2016年、「青が破れる」で第53回文藝賞受賞。

 

 

 

 

 

 

 

 

デタ!  デタ!  デタ! デ、タ! タ! タ! タ、タタ、タタタタタ・・・

岸壁の突端で鐘が鳴る。

いつか飛び降りるならこの海がいい。

非常階段に波がうちつけ、はなびらが砕けちる。