おしらせ

 

2017_02_20

山本浩貴+hが小説「草のあいだから」を寄稿している『文鯨』2号が発売されました。長めの短編です。いぬのせなか座立ち上げの経緯と、詩集『灰と家』の制作、昨年9月のパフォーマンス「空間と記述」制作などをめぐって、代弁(死者、友人、過去、虚構への……)と距離について、書きました。末尾にはパフォーマンス「空間と記述」の記録映像へのQRコードも印刷されています。また、『文鯨』表紙をめくったところに、小さなドローイングもよせています。

 

 

 

 

2017_01_21

津島佑子: 土地の記憶、いのちの海』(河出書房新社編集部)に、いぬのせなか座が参加しています。著作解題で、12作品(『光の領分』『山を走る女』『夢の記録』『火の山』『笑いオオカミ』『ナラ・レポート』『電気馬』『黄金の夢の歌』『ヤマネコ・ドーム』『ジャッカ・ドフニ』『半減期を祝って』『狩りの時代』)について、短く、とはいえかなりごつく、論じ紹介しています。どうぞご一読ください。

 

 

 

 

2016_12_29

『現代詩手帖』2017年1月号の詩書月評(時里二郎さん)にて、鈴木一平『灰と家』が、冒頭から大きく取り上げられています。

「鈴木一平『灰と家』(いぬのせなか座)の詩の世界に目を瞠った。

 

 人の、聞こえなくなる声は

 金具に映る月

 水際をつなぐ、球のみずうみ

 あじさいの花を着る鹿は、一滴の

 輪になって、首すじの光を考える

 雲の端からこぼれた日差しが、道の向こうに落ちている

 道の上、雨を浮かべて、寝そべったままの姿見を

 横切ろうとする、空のまん中を」

 (「あじさいの花を着る鹿は」部分)

 

 このうるおいに充ちた音楽。声に出してみるとわかるが、丁寧に音韻を意識して言葉が織られている(例えば引用部分は、カ行音とマ行音で縫い取られている)。刺々しく難解な抽象語のたぐいや翻訳語はなく、やわらかな和語−ひらがな系の語感を生かして、語彙も意識的に制限されている。遠いところで古典的な詩語のうるおいの水脈にさえとどいている。

 しかし、言葉の論理をたどっていくと、ほとんど迷子になってしまう。言葉の意味性(論理)を使って、何かを伝えようとする詩ではない。改行詩の作品を読んでいると、故郷で過ごしていたころの記憶の断片が紡がれているのがわかる程度。ちなみに一九九一年宮城県生まれとある。思い出される少年期の《輪郭》ではなく、その生地や肌理の質感を、言葉によってたどりなおすわけだが、その際に、耳や目や触感を、言葉の音韻や意味の滲みや齟齬をあやつって織りあげていく、その手際は実に新鮮で目を瞠った。

 このような改行詩のあとに、「日記」がはさまる。これはがらりとスタイルが変わって、紙面の下段に、ごく普通の文体で、その日のことが綴られ、冗談に俳句が一句掲げられている。俳句と日記の関連性は表面上は薄いが、日記の「私」は確かにその一句をその日に書いたということであり、むしろその断絶にこそ俳句のポエジーが担保されている。後半は再び行分け詩にもどる。ただし、ここでは、一行の任意の語の「音」をルビのようにひらがなで取り出して、それによって新たな氏の一行が挿入される、といった試みがなされている。詩の言葉を論理や意味からほどいて、その生地としての感覚のテクスチュアを紡いでいく。そのテクスチュアに、詩人の生の原郷を織り込むこと。そんな果敢な試みの詩集として読んだ。また、この詩集の造本の、清潔で生真面目な意匠にも魅かれた。何をおいても瞠目すべき第一詩集である。」

 

 

 

 

2016_12_28

2017年1月18日(水)に東京都大岡山で行なわれるイベント『BONUS超連結クリエイション vol. 4 テクノロジー×ダンス×X(社会的課題)』に、山本浩貴+hが参加します。

5つあるパートのうち、2番めの、「手塚夏子のアイディアをめぐって「ソーシャル・トレース」」で、10分ほどパフォーマンスをする予定です。手塚夏子さんのすごい手立て〈トレース〉を、自分なりにどう発展させられるか、提示する役回りです。今回、平日ということもあり(!)、山本浩貴+hのふたりだけでのパフォーマンスになる予定です。先日の「新しいルーブ・ゴールドバーグ・マシーン」でのパフォーマンスの発展形になるのか、あるいはまったく別のものになるのか、まだわかりませんが、どうぞよろしくお願いいたします。

(手塚夏子さんに関しましては、現在発売中の『早稲田文学』2016年冬号にて、山本が企画担当した小特集「からだにとって言語とはなにか」(小特集リード文がこちらで読めます)にご寄稿いただいています。どうぞご一読ください。)

 

 

 

 

2016_12_05

鈴木一平『灰と家』に関するTweetをまとめました。

鈴木一平『灰と家』に関するツイートまとめ(随時更新)

 

 

 

 

2016_12_03

鈴木一平が「詩客」ホームページにて短歌評「短歌を見ました」の第3回を更新しました。今回は、「穀物 第3号」に掲載されている作品を分析しています。

《曇天と知覚の対であるところの上句・下句の構造は、「ごとくありて」と「見ひらけば」の転換を挟むことで両者の関係を明瞭にかたちづくっています。鰈のように差し出される曇天があり、それを受け取る目の視覚。言い換えれば、曇天を主語とした述部としての視覚というレイアウトによって、作品はひとつの図を形成しています。数ある詩型のなかでとくに短歌が優れているのは、こうした対のレイアウトがもつ反復=リズムの時間性において、文構造に依存しないかたちで言葉の配置を有機的な歌としてつくりだし、そこでうたわれるものに情感を搭載させることができるところであると感じます(その点で、俳句はむしろ物がそこにあるかのような、身体に対する異物性をその力の頂点にもつのではないかとおもいます)。》

 

 

 

 

2016_12_01

『現代詩手帖』2016年12月号にて、カニエ・ナハさんが、一年間の詩誌月評を総括する記事の冒頭で、『いぬのせなか座2号』を《おそらく千冊以上の詩誌を手にとったなかで〔…〕とりわけ先鋭的》と評し、さらに先日のパフォーマンス(があったということ)にまで触れていただきました。また、テキストの終わり頃には、鈴木一平の『Aa』掲載詩を引き、《「いぬのせなか座」でも触れたけれど、鈴木一平さんは、高い問題意識と技術とをもって書かれている、いま最も注目すべき、今後がもっとも楽しみな書き手の一人と思います》と書いてくださっています。本当にありがとうございます。ぜひ書店にてご一読ください。

 

 

 

 

2016_11_30

『いぬのせなか座2号』の初版が完売いたしました。現在再版準備中です。今しばらくお待ちいただけますとさいわいです。

 

 

 

 

2016_11_23

鈴木一平『灰と家』の発売を開始しました。現在、葉ね文庫さまでの委託販売や、文学フリマ東京での販売のほか、ウェブでの通販のご注文を受け付けております。

 

 

 

 

2016_10_22

いぬのせなか座叢書第一弾として、鈴木一平第一詩集『灰と家』を刊行いたします。11月23日発売、11月10日まで予約を受け付けております。予約特典あり。以後、通常販売も引きつづき受け付けております。詳しくはこちら

 

 

 

 

2016_10_09

山本浩貴+hが、2つの企画に参加します。ひとつは、12月刊行予定の「文鯨」第2号での小説の執筆。もうひとつは、10月16日に、飯岡陸さんキュレーションによる展覧会「新しいルーブ・ゴールドバーグ・マシーン」のなかのイベントのひとつとして、「空間と記述」と題されたパフォーマンスとアフタートークを行います。

「文鯨」では、「叫びを翻訳すること」というテーマの下、久々の小説を制作しています。現在、「motion gallery」でのクラウドファウンディングを行われておりますため、もしご関心のある方は、ぜひご検討くださいませ。

展覧会「新しいルーブ・ゴールドバーグ・マシーン」では、いぬのせなか座総出で、パフォーマンスを準備しています。30分ほどの、〈私が私であること〉の知覚に関する思考の素材となるような映像と行為の編集となるかと思います。言語表現に感じずにはいられない「空間」イメージや、ホラー映画での〈リアルタイム性〉のほつれの様態、身振りがいかなる客体として周囲の環境を自らのうちに掛け合わせるかなど、さまざま提示し議論するかと思います。もしお時間のあるかたは、ぜひよろしくお願いします。

 

 

 

 

2016_10_08

山腰亮介さんの詩客での連載「自由詩時評第195回 「生」の収斂/修錬」にて鈴木一平「予告篇」を紹介していただきました。ありがとうございます。鈴木一平第一詩集は、ようやくほとんどの内容が確定し、刊行間近です。よろしくお願いいたします。

 

 

 

 

2016_09_10

座談会4の練習映像を「333」に公開しました。これに関するテキストを山本浩貴+hがブログで公開しています。

 

 

 

 

2016_09_03

鈴木一平が「詩客」ホームページにて短歌評「短歌を見ました」の第2回を更新しました。今回は、ほぼ同時期に小説と短歌という2種類の表現形式で発表された雪舟えま「愛たいとれいん」を分析しています。

 

 

 

 

2016_07_17

『週刊俳句』さんに、山本浩貴+hが、「閉鎖性を条件とする《空》の相互観測とアニミズム わたしの新たな身体の制作に向けたふたつのルートの仮設計」というテキストを寄せました。これは、『週刊俳句』の5月・6月に掲載された俳句作品を論じる企画のひとつです。

俳句という表現方法について、個人的に細かく分析することはあれど、それは嵩張るテキストのなかでの思考ではなく、単発的なメモばかりが積み上がっていたのですが、こうしてご依頼をいただいて書くことで、自分の中で強引に(自分自身を用いて)突破口をつくり出すような状況におかれることができ、書くのはたいへんだったけれど、とてもうれしかったです。

また、平倉圭さんからの簡単なご感想()、福田若之さんによる批評「「切れ」を疑う 山本浩貴+h「閉鎖性を条件とする《空》の相互観測とアニミズム」を読んで」など、応答をいくつかいただきました。それに関しても、とてもうれしかったです。

俳句の「切れ」については、いぬのせなか座でも最近おおく議論の俎上に載ります。たいへんむずかしい問題であると同時に、制作における複数の自己がどのように発達し、処理されていくか、その土壌とはいかなるものか、について考えるには、避けては通れないものなのだという認識を、日に日に強くしています。(山本)

 

 

 

 

2016_07_10

東京都墨田区で7月10日に行われる、詩の販売・朗読イベント「ポエケット」に、いぬのせなか座が出店します。『1号』『2号』はもちろん、10月刊行予定の鈴木一平第一詩集の「予告篇」が、販売されます。制作進行中の詩集の、見開き6ページを、トンボ付きで縮小印刷したものです。書き直しも含めた制作期間の記載が特徴的な鈴木一平の詩が、進行中の作品の途中経過として提示されるということは、今回の「予告篇」が、10月に実際に刊行される詩集からの単なる抜粋ではないということを意味するでしょう。

今のところ、他での販売は予定しておりませんので、この機会にぜひ、おもとめください。

 

第20回ポエケット

日時:2016年7月10日(日)

午前10時から午後4時半まで

料金:入場無料

場所:江戸東京博物館1階会議室

 

 

 

 

2016_07_05

平倉圭さんが、いぬのせなか座『1号』『2号』に、推薦コメントを寄せてくださいました。

≪句読点を跨ぐたびにねじれる文の跳躍一つ一つが制作に変わる。制作は自己の生の物質的書き換えとなる。おおげさでなく私は『いぬのせなか座』にショックを受け、生きることへの関心と力を新たに取り戻すようだった。とくに山本浩貴+h「新たな距離 大江健三郎における制作と思考」(『いぬのせなか座』1号)は、ものを作るすべての人に薦めたい。「新たな距離」をまさぐりねじれる言葉の脈は、『いぬのせなか座』2号では、正岡子規や荒川修作の傍を過ぎつつ重力とレイアウトの問題へと展開され、諸ジャンルを超えて、もっとも先鋭的で深々とした共同的思考の表現へと足を踏み出しはじめている。いま触れるべきだ。≫

 

 

 

 

2016_06_28

カニエ・ナハさんが、『現代詩手帖』7月号の詩誌月評で、『1号』に引き続き、『いぬのせなか座 2号』を大きくとりあげてくださいました。

《前号では圧倒的な情報量、熱量をもって、文学という以上に、もっと深く広く、現在における私たちの生の(そして死の)在り方の、新しく根源的な地平を切り開き凝視していこうとする姿勢を突きつきられましたが、今号は前号以上の実験を展開し、思索・試作を深められていて、さらに圧倒されました。》

《「いぬのせなか座」は、その立ち上げに際して、かれらの共通の友人の死をその契機の一つとしている旨がしるされていましたが、そんな「いぬのせなか座」は、私になんとなく、およそ百年前の「月映」を思い出させましたが、(メンバーの年齢も、当時のかれらと同じくらいなのではないでしょうか)、「月映」が当時おそらくもっともラディカルなことをやっていたように、「いぬのせなか座」の現在におけるラディカルさは、他の詩誌・同人誌の追随を許しません。》

《私たちに思索をうながし、のみならず身体感覚にはたらきかけ、かつ詩情をも感じさせるようなフレーズに何度も出会える、必読の誌です。A1の紙のほうはぜひ実物と対峙していただきたいです》

 

 

 

 

2016_06_04

鈴木一平が「詩客」ホームページにて短歌評「短歌を見ました」の連載をはじめました。以前連載していた「俳句を見ました」の、短歌バージョンです。渡辺松男や永井祐の短歌を読み解きながら、「『この私』の認識」や「私の外にある私の判断」が、短歌によっていかに表現されるのか、議論が進められていきます。

 

 

 

 

2016_05_31

いぬのせなか座 1号』の第2刷を発売します。

 

 

 

 

2016_05_01

いぬのせなか座 2号』を発売しました。

 

 

 

 

2016_03_05

鈴木一平が「詩客」ホームページにて連載している俳句評「俳句を見ました」の、第6回が更新されました。大野林火や攝津幸彦の俳句の詳細な分析からはじまり、阿部完市の示す〈ゆるい「定型感」としての五七五〉という考え方へ、議論は進められていきます。

 

 

 

 

2016_02_27

『現代詩手帖』3月号の詩誌月評で、カニエ・ナハさんが『いぬのせなか座 1号』をとりあげてくださいました。

冒頭より2ページ超にわたって、いぬのせなか座の概要や、1号掲載の索引などから引用し、紹介してくださっています。なかでも鈴木一平の詩については、座談会1で参照された書き直し前のバージョンと、1号掲載「全集」に収められた書き直し後のバージョンの、それぞれ全文引用による比較がなされています。

《「画布とは未発生の絵画である。」「一点完了すると画面を裏返し、又新たな画布を張る。先行する作品と後続の作品は隣接しておかれたことがない。似たような画面上の現象が一定の規則の中で新たに新たに(ママ)繰り返されている。」といった美術家・中西夏之の言説(ともに一九九七年東京都現代美術館での中西夏之展カタログより)を連想したのは、鈴木一平さんが「いぬのせなか座」1号(いぬのせなか座発行)に寄せられている、「全集」と題された、小詩集と呼んでよいでしょうか、の冒頭に書かれた余白についての文章を読んでのことで〔…〕》

《レイアウトは、詩というより画集や展覧会カタログにおける絵画図版を髣髴とさせ、タイトルの位置も図版に添えられた絵のタイトルの位置も図版に添えられた絵のタイトルのそれに近い印象を与える、縦書きの詩の〈図版〉の左下に横書きで添えられています。注目すべきは、そのタイトルの下に制作年月が記されていることで、中には「2014.9-2015.8」とか「2014.9-」といったものもあり、数ヶ月に及ぶ製作期間や現在も制作が進行中であることを示唆しています。ここで思い出すのは西脇順三郎の詩集『近代の寓話』の巻頭に置かれた西脇自身による前書きの中の「私の考えでは一つの作品は与えられた瞬間に於ては唯一の形容をもつているが、それは常に変化して行くべきところを知らないのであつて、決して定まるところが無いのだと思う。私の詩などは現代の画家と同じく永久に訂正しつゞけるのであつて、それは画人も詩人も同じことだ。」》

《〔鈴木の詩は〕例えばマーク・ロスコやゲルハルト・リヒターの絵画のように何層・何十層にも絵画の、色彩の、層を重ねられた絵画の前に身をおいたときの、空間のみならず、時間の堆積が余白の層となって私たちを圧する感覚を想起させます。》

《〔『いぬのせなか座 1号』は〕もの凄い情報量と熱量をもった総合誌であり、実験場になっています。》

 

 

 

 

2016_01_30

山本浩貴+hが、blanClassにて開かれた週イチ平倉圭セッション[異種を折りたたむ]に参加しました。「つよいありんこ」という、ドローイングと俳句とレイアウトのないまぜになったような展示・パフォーマンスでした。詳細は、5月1日発売の『いぬのせなか座 2号』に掲載予定です。

 

 

 

 

2016_01_06

中井秀明さんがブログで『いぬのせなか座 1号』について言及してくださいました。

「移人称小説」と「いぬのせなか座」 - 翻訳論その他

渡部直己さんの提示した「移人称小説」という概念への指摘から、人称に関する議論へ進み、『いぬのせなか座 1号』掲載の座談会でなされた山本の発言が引かれています。その他、山本の大江健三郎論や、なまけの小説「ロケットのはなし」に関しての、批評・紹介がなされています。

《輻輳し、矛盾する文章や視点のそれぞれに1個の宇宙を割り当てるかのような多宇宙の構想、そしてそれに「収束の力」を与える「私が私であること」等々、アイディアが豊富なこの大江論は、当の大江自身や保坂和志によるそれと並び、実作者の側からの小説観の表明として読みどころが多く、私はまだ消化しきれていない。》

《これは『言語にとって美とはなにか』の単純な否定ではない。この否定ならざる否定――脱構築――から導出されたと思われる「小説は、なぜ、言葉のみを不可欠な素材としているふうに装っているのか」(「新たな距離 大江健三郎における制作と思考」、強調は原文では傍点)という問いの立て方のユニークさは疑いようがない。》

《『いぬのせなか座』では、掲載された個々の文章のモチーフやテーマが相互に響きあい、テクストの物理的な配置まで巻き込みながら、緊密な全体を形作っている。「移人称小説」ということでは、なまけ「ロケットのはなし」という掌編にもまた、私は、「移人称小説」と(誤って)呼ばれる現代日本小説のいくつかに感じられるのと似たような技巧性、ないしその手触りを感じた。焦点の変調も侵犯も起きていないようなのだが。

「ロケットのはなし」で、構成要素である各文の表象する時間や声の所在は、ほんとうに動転に動転を重ねる。ところが字面はまったく整然としているのだ。この対照が面白い。たとえばこれを英語だとかフランス語だとかに翻訳する場合こうはいかない。動詞の時制を現在完了、過去、大過去のいずれかに決めなければならないし、話法の使い分けもいる。どうしても、ごちゃごちゃしてしまうだろう。

最後の場面だ。文字たちが作り出す水平運動(類似する言葉)と垂直運動(前後する時間)との引き合いによる緊張が一気に解放される。作品は静かに幕を下ろすが、爽快な余韻だけは長く残る。渡部直己は、保坂和志『未明の闘争』で、「負荷」とその「解除」が効果的に機能していると指摘していた。作品の規模が違うとはいえ、この評言は、「ロケットのはなし」にもそっくりそのまま当てはまる。繊細なつくりの佳品といえる。》

 

 

 

 

2015_12_22 :

3ヶ月ごとに決めている、メンバーがひびあたまのどこか片隅においておきながら生活する3つのテーマ。12月から2月までの期間は、〈余白〉〈あたま〉〈重力〉に決まりました。

 

 

 

 

2015_11_23 :

いぬのせなか座 1号』を発売しました。

 

 

 

 

2015_05_01 :

いぬのせなか座 を立ちあげました。