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いぬのせなか座

河野聡子『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』をめぐって

ズッキーニと詩

 

細井岳

 

 

 

 

2017.08.27

 ズッキーニである。私はズッキーニの味(良さ)を解さない者である。思えば、この野菜は突如として我が人生に現れたような気がする。現在36歳(妻子持ち)の私の子供の時分にはズッキーニなどなかった。それが得体の知れぬオシャレ感をまといつつ、いつの間やら、ふわっと食卓に現れるようになったのである。ズッキーニとは、そんな登場の仕方ではなかったか。ところで、ズッキーニと言えば、ラタトゥイユである。そして、私はラタトゥイユの味もまた解さぬ者である。大体、うまく作れたと思えた事がないし、やはりラタトゥイユも得体の知れぬオシャレ感とともに、いつの間にか私の前にふわっと現れたのであった。

 問題は二つあるように思う。一つは味だ、味が繊細微妙過ぎてわからない。二つ目は、その得体の知れないオシャレ感だ。味に関しては、歯ぎしりをしつつ百歩譲って、私の味覚がその繊細微妙さに対応しきれてないとするして、このオシャレ感というのが質が悪い。つまり、このオシャレな野菜・ズッキーニ及びオシャレな料理・ラタトゥイユの良さを解さない奴はイモい奴、ダサい奴と思われそうな空気が世の中に横溢している。・・・ような気がして、私はよくわからない劣等感やら負い目をこのズッキーニなる野菜に感じてしまうのである。そして、その劣等感やら負い目は日増しに強くなる一方であり、誠に由々しき問題なのである。それがズッキーニ問題である。

 そして、今、このズッキーニ問題と根を同じくする問題が私に降りかからんとしている。いや、すでに降りかかっているのである。

 その問題とは何か?詩である。正確に言うと『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』なる詩集を手に取った事により、触発された事どもを書いてくれろとの依頼をどうするか問題である。私は詩集を熟読した。そして、私が想起したのがなんと情けないことに、冒頭の「ズッキーニである」なのであった。ああ、これはあのズッキーニと同じだと思ったのである。要するに、私は詩というものを解さない者であるという事だ。そして、詩ってなんか得体の知れぬオシャレ感をまとっている・・・ような気がする。更には、この何か書いてくれろという依頼は私だけではなく相当数の人にいっていると予想される。おそらく、それは詩を解している人々になされているのであろう。いや、詩通なのだ、きっと。そんな猛者達の中に並んだ時、私はきっとイモい奴、ダサい奴、場違いな奴として燦然と輝くであろうという予感で胸がいっぱいなのである、今、もう既に。なにしろ想起されたのが「ズッキーニ」なのだから、絶望的にダメであろう。

 しかし、である。この詩集の作者であるところの河野さんがこんな事を言っていたのだ。「詩人は簡単にはわかられてたまるかって、わざとわかりづらい表現をする場合がある」と。真っ暗闇の絶望に閉ざされた私は、ここに一縷の光を見るのである。責任は詩人の側にもあるのだ。「わかられたいのか、わかられたくないのか、はっきりしろ詩人!!」と上記の発言を聞いてツッコんだ私であるが、少しの安堵と共にその矛盾した詩人なるもののあり様にすごく親近感を覚えたのであった。だから、私も詩に対しての態度を決めよう。「簡単にわかった風を装わず、わざとわかってない体を装う」である。この態度を徹底するのだ。ふぅ、一件落着である。めだたし、めでたし。

 ・・・と胸をなでおろした横で、じきに2歳にならんとしている娘が満足そうな顔をしてズッキーニを美味そうに食べている。どうやら、彼女はズッキーニの味をわかっているようだ。うくく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

細井岳(ほそい・たかし)

長野県上田市在住。

普段は林業(杣)を生業とし、興がのったら本棚を担いで山に登り、山頂で本屋をしている。

杣Booksブログ:http://soma-books.com/