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いぬのせなか座

河野聡子『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』をめぐって

2017.09.08

地獄の耳の楽園

―河野聡子「地上」に寄せる断章

 

 

福田貴成

 

 

 

 

 真夏の湖岸は、花の盛りを迎えたレンコン畑に見渡すかぎり覆い尽くされる。いちめんのはすのは。いちめんのはすのはな。極楽浄土にも喩えられよう遥かな風景でありながら、間近に寄ると巨大に育った葉々の群れが泥田の暗がりに光さす空き間も与えないほど無数に連ねられ、地上に増殖する生命の匂いがこちらの皮膚にべっとり貼りついてくる。強い陽射しの下で五感の遠近が歪む。青空には薄白い月が懸かる。病めるは昼の月。

 

茨城、霞ヶ浦湖岸

 

 

 遠近の歪んだ湖岸の街には、「ゆるキャラ」ブームに遅れて便乗したマスコット・キャラクターがいる。レンコンを両耳に見立て、顔の左右にあしらったマスコット。かつては匂い立つ生命の陰でみえないネットワークを張り巡らしていたはずの孔のあいたリゾームは、そのつながりから断ち切られ、断面に空いた複数の孔をこちらに晒すようにして、相場どおりにかわいらしい顔に視覚的なアクセントを与えている。孔だらけの耳。降りそそぐ音の複数の入り口。物音が響くたび、孔々の奥処にある複数の鼓膜がふるえ、そのまた奥では数えきれぬ有毛細胞がささめいているのだろうか。多孔質で多毛症の、忘れられたマスコット。

 

 

 性別不明のこのキャラクターが、昏い水面下での記憶を残した複数の孔を通じて聞く世界のありようを想像してみる。気が遠くなるほどの、聴覚的な世界像の分裂。そして増殖。浄土の静謐からはかけ離れた、打ちつづく耳の擾乱。そこで聴覚的パースペクティヴの同一性は解体され、世界は無数の音の断片となって降り注いでいることだろう。音と出会ってしまうことの受難。遠近の歪んだ湖岸の街に、断片へと分裂しつづける音の雨が降る。

 

 

 

 しかしそもそも、われわれは複数の音の入り口をあらかじめ設えられて、この地上に生を享けたのではなかったか。頭の左右、褶曲する襞の奥に穿たれたふたつの孔。身体のうちと外とを隔てて震える二枚の雲母。蝸牛にびっしりと並んでそよぐ有毛細胞。レンコンの耳を持たずとも、われわれはすでに分裂して到来する音に苛まれながら生きているはずだ。

 にもかかわらず、世界はその同一性の相貌を崩さない。複数化して押し寄せる音の波にさらわれて、われわれが発狂することもない。あまりにも散文的な生。怠惰なバインディング・システムとしての生。

 

 

 複数の耳をもって地上に生を営むということ。それは、増殖する聴覚的世界を、同一性へと絶え間なく馴致する過程なのだろう。耳の分裂を浄めることへの執着としての地上の生。

 

 

 地上から地獄へ。

 地獄のリビングルームには自殺者たちが集い、地上で起きた出来事のすべてを、テレビ放送をつうじて眺めているのだそうだ。過去形と現在進行形。死者たちの目に映るのは、すべてもう起こってしまったこと。地上の出来事からの遅れ。浮世の煩わしさからの、人間的な意味からの、決定的な遅れ。すべてはもう取り返しがつかない。喜びも悲しみも、みんな夢の中。

 地獄の極上モニタリング環境はだから、地上に生きられる現在に、なんらフィードバックなどもたらさない。起きてしまったすべては、リビングルームの視線によって肯定される。なんで惜しかろ、どうせ夢だもの。

 

 

 地獄のモニタースピーカーが響かせているのはきっと、地上ですでに鳴りきってしまった音たちの夢のあと。アンダーグラウンド・テレフォン。死者たちの耳は、そのすべてをあるがままに聞く。Shuffle off this mortal coil. しかしすべてとは? あるがままとは?

 

 

 地上を生きる散文的な耳には、「すべて」を「あるがまま」に聞くことなどけっして叶わない。分裂の浄化に恥ずかしげもなく執着しながら、生者たちは音の波から意味のかたまりを不断に切り出し、そのかたまりにすがりつくことそのものを生の意味へと紡いでゆく。スピーチ、メロディ、ハーモニー。かけがえのないあれらの音、これらの響き。残響すらも即座に音源へと帰属させられ、すべて意味の座標系へと飼い馴らされる。意味意味意味意味意味。ゲシュタルトの桎梏。人間的な、あまりに人間的な。

 死んでしまった者らの耳は、ゲシュタルトの群れを晴れやかに殺す。カクテルパーティーなんか知らない。ヘルムホルツも、フォン=ベケシーも知らない。死んだ無数のカタツムリを、地上に起きた振動の断片が絶え間なく通り抜ける。すべての震えの残効は、その無秩序な共存において留保なしに肯定される。あらゆる断片を断片のままに擁護せよ。それらが乱交するさまを慈悲もなく静聴せよ。原音と反射音のあいだの、言語と物音のあいだの、沈黙と修羅のあいだの、すべての自由な結合を肯定し、そのオルギアのなかから生まれる呪われた音の子供たちを、すべて、あるがままに祝福せよ。それが地獄の耳の掟。モニタースピーカーを前にした死者たちの耳のテオーリア。

 

 

 

「曖昧なものから抜け出して、自分の思考のなかに生起するものについてなら何であれ明確にしようと試みる連中は、豚である。」(アントナン・アルトー)

 

 

 地上に営まれる「みんな」の生。いかにかけがえのない「出来事」に満ちて見えようとも、つまるところそれは凝縮されたデータの鎖であり、またその終わりなき複製(リプロダクション)の過程にすぎない。肉塊に焼き付けられたシークェンス・データ。その無数のセリーが、互いに追憶し、予感にふるえ、欲情しながら絡まりあい、個体の死を超えてみずからを永遠に紡いでいく。トータル・セリエリズム。エンコード/デコード。リメイク/リモデル。エンドレス、エンドレス、エンドレス。

 とするならば人の一生とは、謎めいた暗号のセリーを乗せた肉塊が、謎としてのみずからの官能に無頓着なまま、意味のかたまりを求めて右往左往するトラジコメディなのだろう。ショットガンの撃ち込む解読鍵が、時にセリーの素性をあらわにする。肉の悲しみなど一顧だにしない、同一性の非情な露顕。しかしそんなアイデンティティとは無関係に、切り出された意味の堆積をめぐる悲喜劇もまた、途切れることなく永遠につづいてゆく。消えていった面影も、みんな夢の中。みんな。みんな。

 

 

 此岸のみんなと、彼岸のみんな。こっちのみんなは鎖を延々と紡ぎながら意味の病にうつつを抜かし、あっちのみんなは病から癒えて、永遠の現在のなかで起きてしまったことどものモニタリングに興じている。

 凝縮されたみんなが、我れ先にとトンネルを抜けてゆく、その抜けでた先にあるのは、ふたたびの地上なのか、それとも。きっとそこは、声と残響と足音がはらはらと破砕されながら、互いに自由な婚姻を結ぶところ。それらすべての断片が、複数の耳によって肯定される場所。「でた! でた! でた! デタ! デタ! デタ!デ、タ! タ! タ! タ、タタ、タタタタタ・・・」。声はしたたり落ちながら反響し、物音へと変態してゆく。しかしここでは、ぬめぬめとした「斜聴」に淫する人間の耳は封印されている。すべての切断と結合とが、朗らかに聞き届けられる。みんなに。永遠に。

 

北海道、登別、地獄谷

 

 

 いつか地上に地獄の耳の楽園を。Heaven is a place on earth / Hell is round the corner. みんなでレンコンを耳へと移植し、さわやかに降り注ぐ音の破片に、肉も鎖も浸透され尽くしてしまえばよい。分裂を浄めることなど知らぬ、聞くことの化け物たちが闊歩する世界。賢しらに語られる沈黙の豊穣も、感覚の鋭敏も、すべて真夏の泥田に沈めてしまえ。

 増殖する巨大な葉々が青空の下に光る。やめるはひるのつき。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

福田貴成(ふくた・たかなり)

1972年生。聴覚文化論・表象文化論。首都大学東京都市教養学部准教授。最近の論考に「修羅の音を聴く──『シン・ゴジラ』におけるモノとステレオ」(『ユリイカ』2016年12月臨時増刊号/総特集「『シン・ゴジラ』とはなにか」)など。