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いぬのせなか座

河野聡子『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』をめぐって

秘密のメディウム

 

大岩雄典

 

 

 

 

2017.08.27

 両開きの冷蔵庫を家電売場でよく見るしさわってしまう。磁石なのかなんだかわからないが、一度右辺から開いて、閉じて、その開いたときに丁番だった左辺が今度は開く。どうしてこんなに重い扉がくっついたり外れたりするんだろう、もしかして無理をしたら突然外れて落ちてしまうんじゃないかと思いながら、両開きの冷蔵庫をさわる。両開きの冷蔵庫を買ったなら、両開きというポテンシャルが活かせるように置きたくなるだろうし、キッチンから取り出しやすい方向のほかに、反対側からも開くことになるようなインセンティブを想定するだろう。リビングから開けに来たときは、回り込まずに開けられるだろう、と。そのためには角に置くことはできない。角に置かれた冷蔵庫は両開きできない。下手するとその両開き冷蔵庫は、からだの記憶を優先して、右開きばかりされることになるだろう。リビングから開けに来たときも、ついキッチンから開けるときと同じ右から開けてしまうだろう。冷蔵庫の開きかたが二通りあることをいちいち加味するのも一苦労で、だって扉側にしまってあるお茶だの卵だのがまるで鏡みたいになって、手前と奥とは混乱する。だからリビングから開けに来たときも、キッチンから開ける。でもそのとき身体が、一瞬リビングの身体からキッチンの身体になる、というわけではない。私はとりもなおさずリビングの身体であって、かつて左側から冷蔵庫を開けていた私は抹殺されてしまった。

 

 左綴じの本を開く。

本というのは速度のメディアだ速度だけのメディアだというのではない本だけが速度のメディアだというのでもない。)巻物ならばシークエンスは連続しており、目と手を滑らせて、つぎつぎに読んでいく綴じられた本はページないし見開きという単位で分節されていてそれをめくるという分節の行為によって展開される。展開というのは英語で包みを広げるde-velopことであって、それに対義する語は「封筒すなわち包みに入れるen-velop

 

正確に位置づけられた数々の個人的で人格的な想起は、その連鎖が過去のわれわれの生存の流れを描いているのだが、それらの想起はまとめられることで、われわれの記憶の最後の、そして最も大きな外皮envelopeを構成しているのだ

(アンリ・ベルクソン『物質と記憶』1896=2007、

合田正人・松本力訳、筑摩書房)

 

だが、〔実体のカテゴリーに従う持続性と、因果性のカテゴリーに従う継起と〕同じく重要なのは、共存という見出しのもとで記述される時間の第三の側面である。すなわち、生成の層ないしエンベロープとしての時間である。その時間は、空間をまたいで拡がり、複数の持続(これらは一緒に流れることも、オーバーラップすることも、遠隔的に共存することもありうる)を、併発する出来事それぞれの「今-ここ」の外へ拡がる同時的関係に即して、まとめあげるのである。

(エリー・デューリング「共存と時間の流れ」、

2016、清塚明朗訳、書肆心水、

平井靖史ほか編『ベルクソン『物質と記憶』を解剖する』所収)

 

 本のページを繰る。言葉を読んでいくと、その言葉を頭から読み始めて、読み終えて、繰る。その繰り返し。文字の大きさが大きくなればそれは早くなって、いちページあたりが眼球にさらされる時間が短くなりもする。文字が大きくなったぶん、それを頭の中に発声するひとは、より大きな音量で再生するだろう。あるいは紙面には色とりどりの図形が運動している。いや、運動しているとおもわれるのは、ページを繰るときに、何かが延長したり、移動したり、現れたりするからだ。その運動の速度はページを繰る速度に依拠する、というのは、ぱらぱら漫画を作ったことのある人なら、みずからの張力でつぎつぎに過ぎ去ってゆくページの端に描かれた図柄が、その残像によって連続性をもっていくことを想像できるだろう。まずは人間が分節された認知に要する単位時間より素早い動きが、アニメーションを生み出すということ。もうひとつは、眼球の認知の速度とは別のところで、その輪郭や色に応じて地にたいして浮かび上がる図柄が、同じものであるかぎりで次々に動いていくということ。漫画の原理だが、これもいまは速度の問題と呼んでいいだろう。ページを繰る。黒い地に、赤や白の折れ線ないし矩形が増えたり減ったりする。その一連はちょうど二十四の見開きから成るので、映画の速度にすればちょうど一秒で繰り終えてしまうが、そうすると速すぎるのか、矩形の動きはアニメートせずに、早送りのように点滅するばかりで、もっと遅い繰りかたで繰り直してみる。見開きを繰る時間は数百の文字を読むよりはなお早いが、図形たちは、同じ位置にとどまるものもあれば、見開きごとに、残像もなく大きくテレポートするものもある。いずれにせよそこではあまり残像が運動をみせかけるということはすくない。一瞬、見開きの左側に、赤い線が伸びて、また縮むとき、ある運動の力、引いて戻る張力のようなものが感じられる。

 

速度というとき、それはひとつの外皮のなかで考えるだろう。わたしが今この「この」をキーボードで打ちながら「打ちながら」、梨を噛んでいる、シャ、シャ、この噛んでいる、そ、く、ど、は、私がこの口腔の外皮で梨を噛んでいるかぎりでその速度を考えられるのだが、いっぽう父が食卓で、私のうかがい知れない何かの書き物をしている(私は私の画面から眼を外すときにだけ、彼を目視できる)のだが、私から父までの速度は、なお大きく約分された外皮のなかでしか理解できないし、この文章が今

いるというそのスクローリングの速度も、私がこれを書いている速度、あるいは私がまず頭の中で成文してからないししながら指越しにキーボードで打ち込まれる速度、とあわせて考えるにはより大きな外皮が欲しくなる。速度を学校でならうとき、距離を時間で割るのだと教えられた。その時間の度に、いかなる出来事が起きるか、を数えることで速度が作用の一性質として析出する。ある封筒を想定するとき、それは除算の装置と言ってもよいだろう。除算を請求されて、外皮はあらわれる。空間というのは乗算の作用で、時間は除算の作用だというのもいいだろう。除算とは図がつぎつぎに認識されるために地がその図のふるまいから請求されるということでもあり、映画のモンタージュがモンタージュと言われるゆえんは、そのデクパージュがデクパージュとしてのふるまいから請求するからだ。ところで図と地というのは英語でそれぞれfigureとgroundという。ロザリンド・クラウスによれば、〈〔擬態する〕昆虫が地に浮かび上がる図figure against groundから地にまぎれた地ground on groundに変化する〉(『視覚的無意識』、1993=1995、小俣出美・田崎英明訳、太田出版『批評空間1995臨時増刊号 モダニズムのハード・コア』所収)

 

 地上という空間で、時間的に起きる出来事を〈ぜんぶ〉みているというとき、その〈ぜんぶ〉というのが、地上という外皮を請求した効果そのもので、それがみている〈ここ〉と一貫されるとき、主体の物語は、一瞬、浮き上がるだろう。それらをあわせて除算の作用と呼べる。すなわちようやくここで時間が——〈起きた〉という過去形にそうして先取された時間の作用が、〈ぜんぶここからみている〉ことではじめていまさら密輸される。

 

一番大事なネジは脊椎と頭を留めている首のネジだ。次に大事なネジは脊椎と骨盤を留めているネジだ。頻繁に締め直している。頭の中にもネジがある仕様になっている。締め直しようがない。通信班が内部に張り巡らされたケーブル保守を担当している。通信班の怠慢によって頭と脚をつなぐケーブルが切れるといろいろと支障がおきる。ケーブルは伝達だけでなく、手足を吊ったり、つないだりし、さらに靴ひもになることもある。コールを待つ。接近遭遇に際しては背骨を車軸とする巨大なタイヤを回転させ、現場から殻を背負ったかたつむりのように素早く逃げ出す。胸の中にバネや動力炉のほか、誇りも一緒にいれられている。そういう仕様である。ダンボール箱にたくさんの小さな惑星がカモフラージュされ隠されている。吊り上げ、組み立て、穴に入れる。この地上にほんの少し似たような生き物がいる、それだけを頼りに生きのびる。コールを待っている。ひとりではない。

河野聡子「ブルーブック」

『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』2017、いぬのせなか座叢書)

 

地上の人々にはひみつだ/ぜんぶここからみている

(同「アンダーグラウンド・テレビジョン」)

 

時間は、つねにみずからを秘密としながら密輸されて、地上を要請する。ここに来ることはつねに手遅れで、時間はそうした秘密のメディウムだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大岩雄典(おおいわ・ゆうすけ)

1993年生まれ。東京芸術大学大学院美術研究科在籍。濫喩や展示、近々では家具について、おもに美術の領域で作品を発表する。主な展示に、個展『わたしはこれらを展示できてうれしいし、あなたはこれらを見てうれしく、これらは展示されてうれしい』(2015,TWS渋谷)、小説『時間割』(2016)、グループ展『Surfin’』(2017,入谷)。euskeoiwa.com