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333

いぬのせなか座

について

 

いぬのせなか座 は、言語表現を基軸に置き、絵画、映画、踊り、写真、デザインなどをそこへ流し込むことで、私が私であること、あるいは私の死後に向けた教育の可能性を、なるべく日常的に考えつづけていくために立ちあげられた集団です。

 

2017年現在、

◯ウェブサービス〈Googleドライブ〉を使って行なわれる複数人によるテキスト作成・議論形式〈座談会〉や、メンバーの作品・テキストなどを、制作・掲載・編集・デザインする書物「いぬのせなか座」各号の刊行

◯グループ内外の特定の作者名が冠せられた本を作る過程・それが読まれる過程を通じて、新たな共同制作の技術や場の生成、伝達を試みるシリーズ「いぬのせなか座叢書」の刊行

◯言語表現の思考法や技術を転用した演劇・パフォーマンスの制作

○グループ内外をつらぬく制作プロジェクトや、パフォーマンスのプロトタイプ(理論・譜面・実践例等)を保存・提示する「333」の運営

といった活動を中心にしています。

その他、雑誌等からの依頼をうけて批評や作品を制作・寄稿・上演しています。

メンバーについては、上部メニュー「ひと」をご覧ください。

 

Mail:

reneweddistances(@)gmail.com

 

 

 

 

けいい・たちば

 

いぬのせなか座は、2015年5月に立ち上げられたばかりの、小さな名前です。同じ年の3月に起こった、いっしょにものを考えたり遊んだりしていた友だちの死をきっかけに、山本浩貴が、鈴木一平となまけ、以前から山本とともに制作していたhを巻き込んで、インターネット上で立ちあげを宣言しました。

 

いぬのせなか座は、追悼という身ぶりにおいて、みんなの統一をめざすものではなく、各自の死後に各自を引き継ぐ技術を、各自が各自の方法でつくりだす、そのための実験場をめざして立ち上げられました。それは、生まれた瞬間から死ぬ直前までの時間の幅を、たった数ヶ月の制作過程に押し込めてしまうような、そんな、時間のびゅんびゅん積み重なる化石のような場所でした。

 

いぬのせなか座は、自分自身に対しても実験を行い、その成果物として自分を実験場たらしめる、小さな名前です。自分があしたにはどういうやり方でめざめ、朝ごはんを食べるのか、どういう歩き方で街までゆくのか、その指標についても、あれをためしてみてはやめ、あれをためしてみてはやめを繰り返していくなかで、いくえにも上塗りしていくものです。

 

いぬのせなか座は、立ちあげから6ヶ月たった11月の時点で、次の3つにおおむねまとめられるような指標を、もっています。

・書き直しをおこなうこと。書き直しを通して複数の時間と思考と私を束ね、即興を塗り重ね、生きるための道具をつくる。そのときの「私」は、生きものも石ころも、あらゆるものを考慮にいれる。

・作品を単体で自律させないこと。作品と作品を読み、書き直す私、それらをつなぐレイアウトの問題として、作品の成立を考える。

・泥沼になるまで話しあうこと。お互いがお互いを素材に用いて、ときにはどこまでも抵抗し、各自の思考を、すこしでも押し広げられるよう、努力する。

 

書き直しは、目の前にある言葉から、それを書いた生きものの体の動き・まわりの環境、考えなどを勝手に思い描き、それといっしょにいまの私が、より本当のことに近づくよう言葉を並べあらためるという、決してひとつの体の営みには回収しきれない、歴史をもった踊りです。そこではすべて、言葉は借り物であるぶん、いつかまた書き直される運命にあるいまの私もまた、過去か未来かどこまでも遠い宇宙のものものに、借り出される必要があります。言い換えればそれは、いまこの瞬間に起こった体の動きを、別の体においても同じくらいの複雑さでもって生じさせられるような抽象性を、体の外に、文字の空間的配置としてつくるということです。

 

いぬのせなか座は、5月に立ち上げられてすぐに、自分のスタイルの手がかりを探すため、Google Driveを使った座談会を、開きました。みんなが自分のiPhoneやパソコンに向きあって、あちこちを同時進行で書いていくそのやり方は、座談会、といったって、みんな座ってるわけじゃない、むしろそれぞれほうぼうを歩きながら書いている、星座の座をもった座談会のやり方でした。誰かの文章に何日も前に応答しきったかと思ったら、いつのまにかその応答先の言葉が書き直されていて、またこちらも書き直しにとりかかる、ということも、しょっちゅうでした。そうして、小説制作における思考や詩のレイアウト、動物や不変項、余白についてなどが、あちこち飛びかうように話されました。

 

いぬのせなか座は、書き直しの技術を介した死後の生への試みということにかんしては、大江健三郎を、複数の生きものがともにばらばらに思考するということにかんしては、荒川修作を、それぞれ手がかりにするものだとして、山本が「新たな距離 大江健三郎における制作と思考」という文章を、ここ2年ほど、絶えず書き直しつづけたことを、それぞれきっかけに持っています。

 

いぬのせなか座は、5月にやった座談会の手ごたえを抱えながら、6月から11月にかけて、自分たちでばらばらに作品をつくる過程に入りました。鈴木一平は「全集」という、詩の集まりを。なまけは「ロケットのはなし」という、小説を。山本浩貴+hは、「共同性についてのノート、絵巻物」という、タイポグラフィを兼ねたテキストを。それぞれつくり、見せあいました。

 

いぬのせなか座が、作品についてはなしあうとき、作品の良し悪しは、ほとんど話題になりません。作品の属している論理は、作品よりもずっと大きいものだからです。小説や詩が、テキストそのものではなく、その奥でもなく、テキストの手前側に広がる生きものと環境の組みあわせこそにある、という、いぬのせなか座で何度も繰り返しのべられる論理が示しているのは、そういうことです。だから、作品に対するここでの身ぶりは、どうにかしてこの道具をよりよく使ってやることをめざします。いわば、それは書き直しの遊具なのです。(そのいみで、遊びつくすに足る論理をもったものであるかどうかが、作品に対する、ゆいいつの評価軸かもしれません)。

 

あるひとが、こんなものを作ってきました、と言うと、それを前にしてみんなで、この事物を介して作りうる論理を、探る。そうして、その論理はなんでここに出てきたんだろう、もしかするとぜんぜんべつの素材からできている、あの事物が起こしている論理と関わるかもしれない、などと言って、どんどん話を重ねていく。このとき、話している人びとは、詩の配置されている紙面におけるレイアウトのように、振る舞うことになります。あちらの言葉とこちらの言葉をむりやりにくっつけて、相手の思考のじゃまをする(抵抗する)。じゃまをされたら、それをまた素材に使う。素材と素材を変換させる。ひたすらな強引さのもとで、実験場どくとくの言語を、つくります。それが、書き直しによってのぞまれる、宇宙のほうぼうを飛び越える星座としての、物語りの技術です。

 

いぬのせなか座は、6ヶ月のあいだに行ったことを、本というかたちでまとめることにしました。それが『いぬのせなか座 1号』です。そのさい、もういちど座談会を開き、ぎりぎりまで書き直しをおこない、本のさいごに収めました。俳句や絵画、詩におけるキャラクター性や、まね、純粋言語についてなどが、話しあわれました。

 

いぬのせなか座は、自分自身をつくるための試行錯誤をしているなかで、気づけば、いかに全体主義に似通わないでいられるか、という問いを考えるようになりました。書き直しには、文章をつくった生きもののものの見方や体の動かし方を、自分は理解したと言いきってしまう、そんなおそろしい断言が、裏側に貼りついています。その断言は、生まれた瞬間の自分と今の自分が同じ自分であるという確信と結びつき、「私が私であること」を、かたちづくっている。書き直しの技術のためには、「私が私であること」のほつれだけでなくかろうじての維持が、どうしても必要だという、加減の難しさがあります。

 

書き直しに必要な時間の量が、そのなかで急速に積み重なっていく、そんな実験場がなければならなかった。という気持ちで、ようやくひとつの言語を作ったのなら、次は、自分が難民であることに気づかないといけない。書き直しのなかで作られた土地も体も、常にすでにもう手元からは見当たらない遠くにあるから。難民の身になって、なんてもんじゃない、どうしようもない立ち往生です。

 

いぬのせなか座は、自分たちを、ひとまず書き直しのきかない本というかたちに落とし込んでみることで、それでもどうやってげんきに立ち往生しつづけるのか、試みているものです。

 

 いぬのせなか座 2015年11月23日